研究の概要
- 原音場で収録された音を、再生音場で立体的に再現する立体音響システムに関する研究です。その中で、原音場での音圧を再現する技術の1つであるトランスオーラルシステムを扱っています。
立体音響のイメージ
トランスオーラルシステム
- ダミーヘッドと呼ばれる人の頭を模したマイクにより原音場で収録された音を、再生音場でスピーカを用いて再生する技術です。トランスオーラルシステムでは、再生の際に室内伝達特性と呼ばれる再生音場の特性が入り込むため、フィルタ処理によってその特性を打ち消す必要があります。このとき使用されるフィルタを逆フィルタと呼びます。
ダミーヘッド
トランスオーラルシステムのイメージ
- トランスオーラルシステムには、「音圧をそのまま再現するため、精度が高い」という利点と、「逆フィルタ設計のため、耳元での特性の測定が必要」「測定した位置から受聴者が移動すると、再現効果が得られない」という欠点があります。
サブスペース埋め込み法
- Saruwatariらは、逆フィルタに特定の方向のスピーカからの出力を強調するフィルタを組み込むことで、受聴者が移動しても再現効果が得られる手法を提案しました。この手法をサブスペース埋め込み法と呼びます。
- サブスペース埋め込み法では、受聴者が制御点から移動していない場合には逆フィルタによる高精度な再現、移動した場合には音源方向のスピーカからの出力を強調するターゲットフィルタによる定位感を損なわない再現を行います。
制御点での再現
制御点以外での再現
ターゲットフィルタの設計
- ターゲットフィルタTは、以下のような形で設計されます。
mはスピーカ数、nは制御点数、G+(ω)は室内伝達関数のMP一般逆行列、τはスピーカから制御点までの遅延、ωは角周波数、kは強調するスピーカの番号を表します。Frはフロベニウスノルムです。
- すなわち、ターゲットフィルタは、強調するスピーカには逆フィルタと同じ量のゲインと遅延を持ち、それ以外のスピーカに対しては量を持たないフィルタになります。サブスペース埋め込み法では、このフィルタを逆フィルタに組み込みます。
- サブスペース埋め込み法では、逆フィルタによる音場再現の方向と、ターゲットフィルタによる出力強調の方向が一致している必要があるため、「スピーカの存在する方向しか音場再現ができない」「再現精度を高めるためには数多くのスピーカが必要」といった課題があります。
適応フィルタを用いたサブスペース埋め込み法
- サブスペース埋め込み法の課題を解決するため、適応フィルタを用いてスピーカの存在しない方向の特性を推定し、フィルタ設計に用いる手法を提案します。
適応フィルタ
- 適応フィルタとは、現在の出力と理想の出力の誤差を繰り返し計算し、係数更新によって誤差を最小化することで理想の出力を推定するフィルタです。以下の適応アルゴリズムによって係数更新を行います。
適応アルゴリズム
フィルタ設計
- 例として、下図のようなスピーカの存在しない受聴者の正面方向からの音の再現を考えます。このとき、正面の左右にあるスピーカから同じ大きさの同じ音を出力すれば、受聴者は正面方向に音を知覚すると考えられます。しかし、音像の方向と実際に音が出力されているスピーカの方向が異なるため、受聴者が動いた場合に不自然さを感じてしまいます。このため、強調するスピーカに音像の方向の特性や遅延を与える必要があります。これを適応フィルタにより推定し、ターゲットフィルタの設計に利用します。
環境のイメージ
特性の推定
スピーカの距離や方向によって遅延が異なるため、得られた係数から遅延を補正し、最終的なフィルタを設計します。
評価実験
- 提案手法がスピーカの存在しない方向の音を再現できることを確認するため、主観評価実験を行いました。何も処理をしていない原音、通常の逆フィルタ、サブスペース埋め込み法、提案手法を比較しました。
実験環境
実験条件①
実験条件②
以上の条件で実験を行いました。ダミースピーカは、視覚による結果の変動を防ぐために設置しています。原音とサブスペース埋め込み法では、スピーカの存在する方向しか出力を行えないため、8chのみとなっています。
実験結果
- まず、実験で設計したフィルタの例を示します。
設計したフィルタ特性(右耳)
これは、右耳に入る音に対するフィルタ係数です。1chと8chを強調しているため、この2つが他のチャンネルよりも大きい係数を持っています。
- 次に、主観評価実験の結果を示します。それぞれ、横軸は音源の方向、縦軸は受聴者の知覚した方向を表しています。円は回答の多さを表し。最大の円は7、最小は1です。
原音
原音では、ほぼ正確な回答が得られました。しかし、音源方向が受聴者の後方の場合にばらつきが見られました。これは、無響室という音を聴き慣れていない環境、視覚の情報が得られない、といったことが関係していると考えられます。
通常の逆フィルタ
通常の逆フィルタでは、後方に大きなばらつきが見られました。これは、受聴者が動いたことにより、フィルタの効果が得られず、前後の判断が困難になったことがあげられます。また、0度方向では、受聴者の動いた方向に音を知覚してしまう場合がありました。
サブスペース埋め込み法
サブスペース埋め込み法では、通常の逆フィルタに比べて、後方のばらつきが減少しました。ターゲットフィルタの効果により、受聴者が動いた場合でも定位感を損なっていないことがわかります。ただし、0度方向にスピーカが存在しないため、0度方向の回答は存在しませんでした。
提案手法
最後に提案手法です。提案手法では、0度方向以外の強調ではサブスペース埋め込み法と変わりがないため、ばらつきもほぼ同程度でした。0度方向については、通常の逆フィルタと比べて正答率が14%から57%と大きく上昇しており、スピーカの存在しない方向の音の再現ができていることがわかります。
結論と今後の課題
- 結論として、提案手法により、スピーカの存在しない方向の音の再現が出来ました。
- 今後の課題として、「実際の室内で同様の実験を行い、無響室での実験と比較すること」「0度以外の方向でも実験を行うこと」「正解のインパルス応答がない状態での推定モデルの検討」があげられます。